西穂高登山
西穂高に登るには、大抵は西穂山荘に一泊し、朝から山頂へアタックする。
山荘に泊まるということは、夕日も朝日も拝めるのだ。
西穂山荘までは新穂高ロープウェイを使い、登山を開始してから2時間程度だったろうか。
割と山荘には早く着き、ゆっくりと夕日が沈むのを眺めていた。
夕食まではまだ時間がある。
夕日の沈む先には、立山や白山が見えていただろうか。
暖かいコーヒーでも飲みながら、携帯をいじることもせず、
ただ時間が過ぎていった。
何もすることがないというのは、それだけ新しい何かを感じることがある。
山で夕日を見ていて、私は人生の終わり方について少し考えた。
山で見る朝日をご来光と持て囃すが、夕日にも特別な名前があってもよいのに。
夕日
敬老の日、私の祖父、祖母はとうに逝去し、
身近な父親、母親により敬意を払うことが多くなった。
私にも子がいれば、子供目線から父母をおじいちゃん、おばあちゃんと呼ぶこともあるっただろうが。
要は、年配の方に感謝する切掛けとなれば、敬老の日なのだ。
祖父も祖母も厳しい人であったと聞くが、
自分や孫たちには優しかった。体の衰えと戦いながら、または受け入れながら
家族との時間を大切に過ごしていた。そうして最後の時を過ごした。
子供心に、まず死を実感するのは、祖父・祖母の死だろう。
何時までもいるかのような人が、二度と会えなくなって、姿も形もなくなってしまう。
しかしお墓として、骨として、位牌として、精神として今も寄り添い、供に歩んでいくのだ。
昔は億劫であった墓参りも、今では先祖への感謝の念を忘れないよう
自然と受け入れられるようになった。
家族、実家に帰った時に、どうにもなく落ち着く感じは受け入れられ、
居場所があるという感触なのだろう。
姿形無くなっても拠り所を残しておく。
そうすることで、家族が家族で分かり合えるのだ。
祖父・祖母のことを思いながら、今の家族の繋がりも保っていくのだ。
今週のお題「私のおじいちゃん、おばあちゃん」