高尾山

f:id:route99:20170917173524j:plain高尾山といえば、天狗がまず思い浮かぶ
都内、その近辺からお手軽に登山に行ける高尾山。
アルプスの山々から比べれば、頂上の景色の狭さに若干物足りなさを感じるが、
お手軽さと、見渡す都会の景色は独特の情緒があることを考えれば貴重な存在である。
登山道が沢山あり、それぞれを自然研究路と呼ぶところも何だか好奇心を持てる。

そんな高尾山で私が気に入ったのが天狗。
ゆるきゃらとは異なり媚びない天狗。
男前じゃない。

夕日

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敬老の日、私の祖父、祖母はとうに逝去し、
身近な父親、母親により敬意を払うことが多くなった。
私にも子がいれば、子供目線から父母をおじいちゃん、おばあちゃんと呼ぶこともあるっただろうが。
要は、年配の方に感謝する切掛けとなれば、敬老の日なのだ。

祖父も祖母も厳しい人であったと聞くが、
自分や孫たちには優しかった。体の衰えと戦いながら、または受け入れながら
家族との時間を大切に過ごしていた。そうして最後の時を過ごした。

子供心に、まず死を実感するのは、祖父・祖母の死だろう。
何時までもいるかのような人が、二度と会えなくなって、姿も形もなくなってしまう。
しかしお墓として、骨として、位牌として、精神として今も寄り添い、供に歩んでいくのだ。

昔は億劫であった墓参りも、今では先祖への感謝の念を忘れないよう
自然と受け入れられるようになった。
家族、実家に帰った時に、どうにもなく落ち着く感じは受け入れられ、
居場所があるという感触なのだろう。
姿形無くなっても拠り所を残しておく。
そうすることで、家族が家族で分かり合えるのだ。
祖父・祖母のことを思いながら、今の家族の繋がりも保っていくのだ。

今週のお題「私のおじいちゃん、おばあちゃん」

千畳敷カール

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うだるような暑さの季節には、高原に人気が集まるのはよくわかる。
私も涼を求めつつ、高原の雄大な自然を感じたく駒ケ根の千畳敷カールに行った。
畳を千枚敷けるような広さのカールに圧巻。
高原では霧が度々辺りを包み、視界良好とはいかなかったものの
霧に包まれた時に訪れる、光と音の静寂に心の安らぎを得た。

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遠目に見ているときは遥か彼方に見える山頂も、
一歩一歩進んでいくという行為は力強く、
あっという間に昔の自分がいた場所が遠くに見えることに気付く。
山頂を見るのも、振り返るのも、未来や過去の自分の居場所を見るような
時間の流れを感じられる。

国道120号 いろは坂

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日光を代表とする道といえば、いろは坂
日光東照宮から華厳の滝中禅寺湖へと誘う道。

私は子供のころ小学校の遠足でここに行ったことを覚えている。
ひたすらのワインディングで途中酔ってしまう子もいたり、
大型のバスは切り返しが必要で、ものすごい渋滞する難所という記憶であった。
しかし今日この頃は、道路は二車線部分も多く(昔から?)、意外とすいすいと、
難なく駆け上がっていくことができた。むしろこのワインディングがドライブとして楽しい程だ。
同じ場所であっても、大人になり久しぶりに行くと、子供の頃感じていたことと
記憶のギャップがあるのもまた人生の楽しみの一つ。
日光東照宮やら華厳の滝でも同様のことを感じた。

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はじめは鬱蒼とした森の中を突き抜ける道だが、登るにつれ視界が晴れ、
青い空から山々が見え清々しい。
ハンドルさばきも忙しい中、あちらこちら見渡してしまう。
f:id:route99:20170703224929j:plainいろは坂の象徴といえばつづら折りのヘアピンカーブ毎にある「い」「ろ」「は」標識。
いろは歌は、日本語50音を連ねたものであることはご存知の通り、
元々は仏教の経典、涅槃経の一部を和訳したものでもあり、
例えばうたい出しの「色は匂へど散りぬるを」は涅槃経の「諸行無常」を表したものだそうな。
子供のころの記憶と対比しつつ、答え合わせを今更するような気分で坂を登って行った。
大人になって文化や歴史に感銘を受ける機会があることは嬉しいこと。

紅葉の時期にまた行こう。